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「二心」があるなら方向転換を!

ハレルヤ☆

皆さまおはようございます(^^)

今日もまず御言葉から分かち合いさせていただきます。

■ディボーション・第1サムエル29章5節〜11節

■背景(リビングバイブル参考)

ペリシテ人イスラエル人の戦争

ダビデがサウルの手から逃れるために、敵であるペリシテ人のアキシュ王の所に行き、王から、田舎町ツィケラグという地を与えられた。

ダビデはそこで、同胞以外の住む村々を襲っては人々を皆殺して、着物などを略奪しては、アキシュ王には、「同胞を襲った」と偽りの報告して、略奪物を捧げ、こうして信頼を得ていた頃、

ペリシテ人イスラエル人と戦争を始めようとして、軍隊を召集していた。

アキシュ王はダビデのことをすっかり信頼していたので、「一緒に出陣してくれ!」と頼んだ。

ダビデは二つ返事で承知し、二人は共同戦線を張ることになった。

■ペリシテの指揮官のダビデへの疑い(29章1節〜5節)

ペリシテ軍はアフェクに集結し、イスラエル軍はイズレエルにある泉のほとりに陣を張っていた。

ペリシテ軍の隊長たちは大隊や中隊を率いて進軍し、ダビデとその配下はアキシュ王を守ってしんがりを務めた。

ところが、指揮官たちは、「このイスラエル人どもは一体どうしたんです」と質し始めた。

するとアキシュ王は、

イスラエルの王サウルの家来、ダビデじゃよ。わしのもとに落ち延びて、一、二年になるが、今日まで、一つもやましい点がなかったぞ」

となだめ役に回った。

しかし、指揮官たちは、腹を立てるばかりで、

「追い返してください!奴らが一緒に戦うはずがありません。せいぜい、裏切られるのが落ちです。戦場で寝返ってみなさい。それこそ主君(サウル)と仲直りする絶好のチャンスですよ!イスラエルの女が踊りながら、『サウルは千を殺し、ダビデは一万人を殺した!』と歌ったのはこの人のことなんですから。」

とあくまでも、王がダビデと共に戦うことを反対した。

さて、この後の展開は…

■御言葉6節〜9節

●そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。(6節)

●だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちの、気に入らないことはしないでくれ。」(7節)

ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは。」(8節)

●アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということを知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが、『彼はわれわれといっしょに戦いに行ってはならない。』と言ったのだ。(9節)

■分かち合い

■偽りの報告VS事実

アキシュ王はこの一、二年でダビデのことをすっかり信頼して、

「神様に誓って、お前たちは、自分が会った中でもこと優れた面々だ!神様の遣いみたいに完璧だ!」とまで言ってます。

しかし、実際ダビデは、「ダビデの同胞の住む村を襲った、つまりアキシュ王率いるペリシテ人の敵を襲った」ことにして、「偽りの報告」をしていました。

一方、ペリシテの指揮官たちは、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という「事実に基づいて、王に話している」ことから、ここでの神様の采配は、ペリシテの指揮官の意見の方に軍配を上げるわけです。

■罪が気付かないダビデ

そしてダビデも、偽りを突き通すために、「一体私どもが何をしたというのでしょう」と、あくまでも、「同胞と戦う」ことを主張しています。

イエス様が十字架で祈られたように、

●人が罪を犯している時、自分で何を言っているのか、しているのか分からないわけです。

■「二心を持つ」という中途半端さ

このダビデの状態を聖書では、「二心」と言い、主に仕えながら世にも仕える状態です。

イエス様は、

●しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方をはじめとする軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカ16章13節)

と言われましたが、

これをもっと突っ込んで言うならば、黙示録の御言葉に行き着きます。

●わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。(黙示録3章15節)

「冷たい」とは、キリスト・イエスをハッキリ拒絶して世に仕えながら、世の楽しみを謳歌している状態。

「熱い」とは、世とキリスト・イエスとの境界線をハッキリさせ、キリスト・イエスを信じて仰ぎながら仕え、隣人に対してもその人をキリストだと思って仕えている状態。

「生ぬるい」とは、キリストを知った者ならではの状態で、聴き従ったりそうしなかったりと中途半端な状態。

また、ノンクリスチャンの方々においては、

福音メッセージに「素晴らしいねぇ〜、そうだよね〜」、などと言って、何年、何十年と経っても、信仰告白して、イエス様を心に迎え入れてない状態とも言える。

「生ぬるい人」が悔い改めないなら、終わりの時、キリストは口からあなたを吐き出そうと言っていますが、

●イエス様がこのように言われたのは、冷たい人は、何かのキッカケで熱い人に方向転換する可能性を大いに秘めているから、「生ぬるくなるのは良くない!」と言っているわけです。

中途半端な心は毎日が霧の中を歩んでいるようなものですし、イエス様を日々、信じ仰ぐ者でありたいですね。

では、今日はこの辺で(^o^)/

今日も皆さんの上に主イエス・キリストにある平安と恵みのシャワーが降り注ぎますように☆