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バッハ・コレギウム・ジャパン《マタイ受難曲》を聴く

《プログラム》

J.S.バッハマタイ受難曲 BWV244

第?部、(休憩20分)、第?部

指揮:鈴木雅明

合唱&管弦楽バッハ・コレギウム・ジャパン

ハンナ・モリソン(ソプラノ?)、松井亜希(ソプラノ?)

ロビン・ブレイズ(アルト?)、青木洋也(アルト?)

ベンヤミン・ブルンス(テノール?&エバンゲリスト)、櫻田亮テノール?)

クリスティアン・イムラー(バス?&イエス)、加耒徹(バス?&ペテロ)

4月15日(土)さいたま芸術劇場音楽ホール 16時〜

古楽器によるピリオド奏法、アルト独唱者はカウンターテナー、バッハの時代の様式の忠実な再現などを見ると、私はいつも自分の興味が第一に、文化史、宗教史の側面に注がれ、次に祈りの体験(私は仏教徒である)、そしてバッハの音楽の順番になってしまう。

演奏時間は160分を越える大作だが、少しも長さを感じさせず、小規模編成の演奏だが、そのダイナミックな表現は大編成のオーケストラ・合唱に勝るとも劣らない素晴らしいものだった。

本作品は1727年の復活祭聖金曜日、4月11日にライプチヒトーマス教会で初演された。つまり復活祭の典礼と密接に結びついた音楽だった。2017年4月15日は聖土曜であり、イエス復活(聖日曜日)の前日になる。まことに時宜に合った演奏会なのである。325年の二ケーア公会議で復活祭の期日は「春分の日の最初の満月の日の次の日曜日」と決まっている。(にわか学習)

ほとんどの聴衆は、プログラムの鈴木雅明氏による「歌詞対訳」を見ながら聴いていた。各ページ下部に「ページは静かにおめくりください」とある。ただ、困ったことに私のような高齢者には文字が小さすぎ、暗い照明と相まって全く読めない。そこで私は2014年に聴いた(BCJ@さいたま芸術劇場)時のプログラムを探し出して、鉛筆で大きく「コ」「レ」「ア」などと書いた。「コラール」「レチタティーボ「アリア」の意味である。更に、「預言、三度知らない」「逮捕!」「裁判」などと「見出し」を書いて、どんな場面なのか瞬時に分かるようにした。まことに「予習に勝る準備なし」である。

本作品はバッハの時代の様式に従い、二つのオーケストラと二重合唱の編成により演奏された。舞台中央から左右対称にオーケストラと合唱を分け、ソリストも?、?、通奏低音まで二手に分けられている。コラールの際は全楽合奏となる。

この演奏で際立ったのはエバンゲリスト役のベンヤミン・ブルンスである。透明感のあるすばらしい美声と声量、そして安定した表現力において、以前この役を務めたゲルト・テュルクを更に上回る。第?部・26「ユダの接吻とイエスの捕縛」は緊迫した場面だが、ベンヤミン・ブルンスは声量や表情を巧みにコントロールして、この悲劇的結末を語り、直後に「放せ!待て!縛るな!」の民衆の怒りの叫び(27a合唱?)、そして「稲妻よ!雷よ!」(27b1合唱??)のダイナミックな演奏を導く。エバンゲリストの導入から緊張感を高めつつ盛り上げて行く鈴木雅明の「連続技」だ。非常に演劇的な手法を感じた場面だった。

カウンターテナーでなく女性のアルトに歌わせればもっと感動的になっただろうね」と私が少し残念に思ったのが、?部・39のアリア「悔い改める者に憐れみを」であった。この場面は「三度私を知らないというだろう」という「ペテロの否認」からエバンゲリストが「(ペテロは)イエスの言葉を思い出した。そして外に出て激しく泣いた」と、劇的に語った直後に登場する。アルト?(ロビン・ブレイズ)独唱とヴァイオリン?(若松夏美)の非常に美しく悲しい旋律だ。この作品の中では最も強烈な印象を残す音楽であろう。しかし、ロビン・ブレイズは美声ではあるが、ペテロの悲しみの世界に完全に引き込まれてしまう程ではなく、ふと「こちら側」の世界に戻されてしまうような歌い方なのである。私は「もしも、バイオリンのモダーン奏法と卓越した女性アルトで演奏されたなら」とも考えてしまうのである。これは鈴木雅明氏の音楽志向ではないのは承知しているが。

クリスティアン・イムラー(バス?&イエス)は非常に安定感・存在感があり、このソリストが出てくると物語が引き締まる。?部66アリア「わが心を墓として」で、彼はイエスを我が心とした甘美で喜びにあふれる気持ちを巧みに表現した。この伴奏に用いられる2本のオーボエ・ダ・ガッチャが実に良い味を出している。バッハはアリアの伴奏に大変工夫を凝らしているようで、こんな所も大変面白い。

加耒徹(バス?&ペテロ)は声質・表情ともに硬い。ハンナ・モリソン(ソプラノ?)は相変わらず良く澄んだ美しい声だ。?部49アリア「神の愛より出る魂の救い」はオーボエ2、フルート1だけの大胆なアンサンブルで歌われるが、イエスがなぜむごい死を遂げなければならなかったかを切々と歌い上げ、シンプルな構成ゆえに感動も大きなものとなった。ただ、3年前に聴いた時より、幾分のびやかさに欠けていたような気がする。総じてソリストの力量にばらつきがあったと思われる。

私がこの演奏で最も感銘を受けたのは合唱による民衆の声とコラールによる信徒の声である。イエスが十字架につけられた時、民衆(合唱)は叫ぶ。「あいつは他人を救ったのに、自分は救えないのか。イスラエルの王なら十字架から降りてこい。そうすれば信じよう。」

またイエスは最後に叫ぶ。「エリ、エリ、ラマ、アザブタニ?」直ぐエバンゲリストが補足する。「これは“わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?”という意味である。」すると民衆は「彼はエリアを呼んでいる」「エリアが来て彼を助けるのを見ようじゃないか?」と叫ぶのである。

非常に痛々しい場面に胸が痛む。また、過去から現在に至るまでに多くの「異端」とされた人々(日本も含む)が、民衆に働く狡猾な「同調圧力」によって嘲笑され、迫害されたことを重ね合わせれば、この物語が遠い海の向こうの大昔の出来事と片付けることはできないのである。

イエスの死が告げられた後、コラール「祈り、救いたまえ、私自身の最後の時を」がゆっくり、やわらかく、静かに歌われる。悲嘆と失望の後に、復活の喜びを預言するようなコラールだ。そして天変地異が起こり、イエスが復活し合唱「本当に、この人は神の子であった」と結ぶ物語のクライマックス。表現の変化と計算された効果が冴えている。

?部68・合唱(??)「安らかに眠りたまえ」が終わり、鈴木雅明の腕が高く掲げられて静止、そしてゆっくりと下ろされてしばしの静寂。拍手がさざ波のように起こり、やがて大波のように拍手が押し寄せた。1829年メンデルスゾーンが、バッハ死後すっかり忘れられていたこの曲を世によみがえらせた時、彼は語った。

「あのような静けさ、深い感動が聴衆全体を覆ったのを私は体験したことがありません。」

メンデルスゾーンの体験を私はもう一度味わうことができたのである。